演奏会感想の部屋

 

 
   全国大会感想:一般Aの部



 <銅賞受賞団体>

 一関市民合唱団・混声25名(東北支部代表)

 課題曲の「あやつり人形劇場」は出だしから、
昨年よりも声の純度が良くなったのが分かる。
 明るく、軽めだが、丁寧な抑揚で音楽を創っていくところは
「大人の味」の合唱団!

 自由曲のMorten Lauridsenの曲はイタリアン・マドリガル?
 フォルテでのMix Voiceで響きが濁ったりもしたが、
楽曲と歌い手の距離感は昨年よりも適切になっている印象。
 ただ、基礎的な声楽技術や、狙った和音を表現しきれない事等、
楽曲の魅力を充分表現されていたか、となると
ちょっと難しい部分もあります。
 そういう意味で、女声の弱音は色気も欲しいし、
最後のタメイキにも必然性を感じたい。

 それでも歌いまわしの良さや、
技術がたとえ追いついてはいなくても、
一関市民合唱団の「表現したいもの」は
(少なくとも私には)確かに伝わりました。
 「歌心」がある演奏というのは、こういう演奏を言うのだと思います。
 どうか、技術を磨きつつ、その歌心を大切にし続けてくださることを、
心から願っております。



 QuarterNotes・女声17名(北海道支部代表)

 初出場。課題曲の木下牧子先生「歌」は
第一声から「木下作品だ!」
 繊細な木下和音が次々と精度良くハマっていく。
 発声は透明で、いわゆる「北海道らしさ」という表現は
そこ出身の私には反発を感じてしまうのだが、
冷たい清純な美しさがそのまま音に昇華している様子は
やはり「北海道の冬」だなあ、と言うしかない。
 楽曲の解釈は大阪シュッツCDを
かなーり研究してるな、と思いつつ
これはこれで説得力がある演奏。

 自由曲のCaplet(カプレ)作曲、
「Sanctus」は高く立ち昇る声。静謐な美しさ。
 そして2曲目の
松下耕先生の「Ave Regina coelorum」は
リズムの小気味よさ、場面転換、色彩の移り変わり、
ピアニッシモからクレッシェンドする
息を呑むほどのドライブ感、など
指揮者の感性の的確さに
「わかるわかる!」と言ってしまうほど。

 「耕友会以上の松下作品の演奏は困難」
と言うのは定説だけど、
この繊細さはある面で
「耕友会以上」と言っても差し支えないのでは。
 審査員の松下先生も
5位(総合では銀賞1位に位置する)に付けてるし!

 まあ、発声面ではクレッシェンドや、
フォルテでの響きを放った後に未熟さがあったり、
17人一列で歌う平均年齢22歳の女声なのに、
大学生でも、高校生でもなく、
 「全国レベルの中学生」…という印象なのは、
純な発声だけが理由ではなく、
やはり歌い手個々人の音楽のサイズがそれだけ、なのでしょう。

 歌い手と同世代の若き指揮者は
 「ハーレムじゃなく、女系大家族の父親ですよ」
と言っていましたが
指揮者とそのムスメたち、ではなく、
父親への反抗期を経て、
指揮者と立派な「パートナー」になったら
演奏もどんな風に変わるかな、と。

 それでも、同じ大学の合唱団員は
2名しか残っていないというのに、
ここまで統一された発声と音程への精度。
 指揮者への敏感な反応と音楽への集中度は特筆すべきもの。

 一般合唱団すべての団体で
課題曲、そして自由曲の曲間に
会場での咳払いが一番多かったのはこの団体でした。
 それだけ、演奏に集中しているお客さんが
多かったということだと思います。
 
 冬の、北海道の晴れた日は
新雪に風が吹くと、雪が空に舞い上がり、
陽の光にキラキラと輝くんですよ。
 そんな発声であり、美しさを持つ合唱団。

 すくすくと、成長し続ける演奏を
これからも聴かせてくれることを。がんばれ!



 イトウ・キネン・シンガーズ・混声22名(九州支部代表)

 すいません・・・今回、厳しい感想です。
 他の団のように、書かないで済ますことも考えましたが、
これはイトウ・キネン・シンガーズだけの問題でも無いと思うので
書かせていただきます。

 課題曲の「あやつり人形劇場」でまず、
男声と女声の発声の違いが気になってしまって。
 女声は軽め、男声はやや重め。
 こういう少人数合唱団で重要な「響きの統一」が成されておらず。
 しかし、演奏はなかなかの熱演。

 自由曲:木下牧子先生の「水底吹笛」は
前書きでも書いた「ピアノと寄り添う合唱作品」の
難しさが出てしまった。
 合唱団という統一された響きも成されていないため、
ピアノと協奏する印象にならない。
 ピアノのタッチも音量も、男声にはふさわしいが、
女声にはやや強すぎる。

 ・・・と、ここまで読んだ人はたぶん思うだろう。
 「なんでここまでケナして
  なんでこの団体の感想を載せる?」

 そうなんです。実は凄く「もったいない!」と思ったんです。
 ピアノの音が存在している時は
マスキングされて分からないのですが
部分的な無伴奏になったら、
単純にこの名曲を演奏した、というだけではなく、
「おっ!」と感じさせるものがあったんです。

 コンクール自由曲に「水底吹笛」を選ぶのは
料理コンテストの出品にカレーライスを選ぶようなもの。
 他の出品者は目新しい、斬新な料理を出すものだし、
カレーライスというものは、審査員は食べ慣れていて、
余程美味しいか、余程変わっているものでないと評価しづらい。

 しかし、この合唱団の場合、
単に「カレーライス」を選んだのではなく、
「カレーライスを選ぶしっかりした理由」までも
演奏に感じられた・・・とは言いすぎでしょうか。

 自由曲、無伴奏の部分には、
昨年感じた繊細さと、感性の鋭さと、
そして“志の高さ”を再び感じました。
 また、次に聴かせていただく機会を待っています。



 <銀賞授賞団体>


 マルベリー・チェンバークワイア・混声25名(関東支部代表)

 声楽的にとても優れた合唱団。
 ソプラノは純でアルトは深くテナーは柔らかくバスは重厚。
 ただ、課題曲のMouton 「Reges tarrae congregati sunt」は
 (良い演奏をほとんど聴かなかったのだけど難易度が高い?
  それとも聴き合うことが不可欠のこのタイプの曲に
  ホールの特性が向いていなかった?)
 掛け合いに細かなズレや微妙な間があり、
アンサンブルに疑問を感じてしまう。
 そして、ややマジメに向かいすぎで、音楽の変化と言うと?

 自由曲は昨年と同じく、作曲家がそれぞれ違う作品3曲。

 1曲目のLukás 「Dies irae」は鋭いリズムと
前述の深い発声があいまって強い説得力。
 くさびを打つようなアクセントや細部のハモり、
バスの重厚さがインパクトを生む。

 2曲目のElgar 「Agnus Dei」は
1曲目と全く違った優しい曲想なのに
音楽が断絶しなく、つながりを感じられ、ほっとした空気に。

 3曲目のWhitacre 「With a Lily in Your Hand」は
軽やかなリズムに乗って、
上品でセンスが良い、香り立つような世界を描く。

 自由曲1、2曲目とも、
同じダイナミクスの中での
テンションや表現の変化が欲しいなあ、と言う気もしたし、
(声楽的に優れた団体はこういう傾向が多いですね。
 音量や音圧で表現を作っていこう…という)
 昨年の金賞・シードの演奏よりは、やや「隙」が多い、
細部の詰めが甘かったのかなあ、という気もします。

 しかし、去年の「バラバラ」な印象の自由曲に比べ、
有機的なつながりまでも感じさせる今年の3曲。
 そして、もちろん選曲の妙もあるのですが、
良い意味で10歳は年齢を加えた?とまで思わせるほど
表現に奥行きが生まれていました。

 昨年の方が、確かにコンクールとしては
評価が高いのは分かります。でも、
 「演奏会に行きたい」合唱団は、今年のマルベリーです。
 良い時間を味わわせていただきました。



 女声合唱団フィオーリ・女声32名・中国支部代表

 なんだこの団体は。
 同じ名前の別の合唱団じゃないの?…と聴いてまず思う。
 以前聴いたのは・・・昨年の全国大会だったはず。
 わりあい純粋な発声でキレイだけれども、でも、
心に引っかかるものがあまり無い、という印象だったような。

 それが・・・。

 課題曲、木下牧子先生の「歌」では
年代がやや高めのこの合唱団の声は
「はじめての子を持った母の喜び」という詩の内容に合う。
 歌い方そのものは、それほど起伏があるわけでもなく、
淡々とした雰囲気を基調としているのだが。
 しかし、フレーズの中の、ちょっとした緊張感、細部の響きの鳴り、
そんなはしばしに効かせるものが、
実に深みのある「大人の女性の味」。

 指揮者の浜崎香子先生の指揮がまた良く。
 歌い手の自由に任せるように流しつつ、
表現のポイントを押さえ、
そしてそれが聴く者に与える効果をしっかり認識している。
 曲の持つ世界、雰囲気・・・指揮にメチャクチャ存在してます。

 自由曲の鈴木輝昭先生「絵師よ」は、
正直に言って、この曲の良さが
私には分かるとは言いがたいのだけど。
 それでも音楽の移り変わりの鮮やかさ、
確固とした土台を感じさせる、厚みある、ゆるぎない表現。
 さらに音色の選び方など、そのいずれもが適切で、
なおかつ、この年代の団員さんが「ムリしている」とは思わせない、
身体の芯から出る、説得力ある表現であり、演奏。

 指揮者が直前に替わった、と耳にしましたが、
そのためかやや、ナタでぶった切る!…のような感じもあり。
 それに加え、薄い剃刀で切り裂くような表現があると、
どんな凄いことになるのだろう、と期待にゾクゾクするような演奏でした。

 来年度はゾリステンも聴きたいし、フィオーリも聴いてみたい!
 ・・・中国大会、行ってみようかなあ・・・。



 <金賞受賞団体>


 CANTUS ANIMAE・混声29名・東京支部代表

 私はわりあい感想では
「泣いた、泣いた」と書いてると思うけど、
30になるまで純粋な音楽を聴いて
涙が出たことは一度も無かった。

 年を重ねると涙もろくなると言う。
 その言葉には、涙を流す事が少ない、若い年代が、
湧き上がる感情に耐えることのできない年を重ねた年代を
揶揄している意味合いが多い。

 それだけじゃないんだ。

 計算し尽くされた、(ああ、これは泣くな…)という音楽もある。
 しかしそうではない、不意に訪れた涙に、
いつも私は戸惑いながら、その理由を探そうとする。

 何回目かの不意の涙の理由を探して、思い浮かんだ結論は、
おそらくその音が、自分というものを形作る、
さまざまな記憶と密接に結びついているからでは、と。

 当たり前じゃないか、と言う人もいるだろう。

 しかしそれこそ、年を重ねることが、
単に感情の制御だけではない、音楽で涙を流す理由でもある。
 日々を暮らし、笑い、喜び、怒り、そして泣き、
生きていき、自分の中に積み重なっていくもの。
 経験や記憶と言うものの堆積。

 そして、ある奇跡的な音だけが、
自分の中のいくつかのものと結びつき、感情を揺さぶり起こす。

 なぜその音が結びつくのか。
 自分の中の、どの部分に結びついたのか、
それは自分にも、誰にも分からない。ただ、ただ、涙が出るのみだ。


 だから、CANTUS ANIMAEの課題曲
「あやつり人形劇場」の最初の一音で
涙が出る理由はやっぱり説明できない。

 会場を満たそうとするほど大きめの音量で歌われたこの曲は、
軽快に、明るく、進んでいく。

 詩の世界を表現するなら、この明るい曲調に、
やや陰りを加えるのが多くの団体のやり方だろう。
 CANTUS ANIMAEはそれをしない。
 耳へ最初に入るのは、 やはり明るい音ばかり。

 それでも二重写しの画像のように、
明るい音像に重なり、ゆらぎ、異なった世界が現れてくる。

 同じ音量でも、この合唱団の演奏はステージよりも遠くから聞こえ。
 またあるときは耳元で囁くように近くに聞こえる。

 そんな立体感ある表現で、明るい音の影から、
たとえば対象である「きみ」への蔑み、嘲り、怒り、
悲しみ、そんなネガティヴな感情が伝わってくる。
 いや、おそらくそういった容易く名づけられる個別の感情を
演奏者は伝えようとしていないのだろう。
 それらが一体となった混沌をこの合唱団は発し、
それが聴く私の胸に広がって、
様々な感情を聴き取ってしまうのだ、きっと。

 音の影に、「きみ」への憐憫と、愛も。


 堀内貴晃先生作曲の自由曲
「みみをすます」(Prologue、1、2)で使われた
打楽器を運んだ人数、実に10人。

 正直に書くと、私は演奏を聴いた後、
 「金賞の下位か、銀賞の上位かなあ…」と思った。
 細部の乱れ、特に各部分の出来に差があったり、
それを繋ぐ表現に疑問を感じたり、
新潟という初めてのホールなのに健闘していたとは思うが、
打楽器を越えて声が響かないなどのバランスの問題もあった。

 しかし・・・まず、「面白い!」と思った人が多かったのでは。 
 谷川俊太郎氏の、想起させられるイメージが豊潤なことばに、
CANTUS ANIMAEの立体感ある歌、
さらに打楽器がことばのイメージを彩りさまざまに加えていく。
 
 声と絶妙に絡む数々の履物の足音、Wood blockの軽快なリズム。
 恐竜の最後の呻き、床を震わす、かすかなBass drum。
 そして私の頬を濡らした
 「おともなく ふりつもる プランクトンに」の
夢みるようなWind chimes…。

 CANTUS ANIMAE委嘱曲であるこの曲は、
まさに「CAのために書かれた」という印象である。
 それほど表現の数々が、団員ひとりひとりの、
CANTUS ANIMAEという合唱団の、
血肉から出ているという印象。


 中井紀夫という作家が書いた「山の上の交響楽」という
SFの名短編を知っているだろうか?
 すべてを演奏するのに数千年はかかる超・大交響曲を
24時間絶えず演奏し続ける8つのオーケストラ。
 そして作品中、オーケストラ団員全員800人が集まり、
八百尺もある巨大な管楽器、
ひとつのブロックが数メートルある
巨大な石琴が使われる楽章の隙間に
小さなひとつのトライアングルが
その澄んだ存在を鳴り響かすシーンがある。
 
 この「みみをすます」の演奏。
 最後の消えていく合唱に重なった、
ほんのわずかな、しかし会場中に響いた
トライアングルの音の美しさに浸り、
長い物語を体験したような思いに、ほっ、と息をついた。


 あの同じ時間、あの同じ会場にいた人でも
 「それほどの演奏じゃなかったな」と感じる人もいるだろう。
 そして、この感想を読む人でも
この演奏を聴かなかった人の数はもっと多いに違いない。

 その中で、純粋に音楽を聴いて涙した経験のある人はどれくらいだろう?

 CANTUS ANIMAEの演奏を思い返しながら
改めて自分の胸に刻み込み、そしてこの文章を読む人へ伝えたいのは。

 今まで、そんな涙を流した事がない人でも。
 前の涙からしばらくの時が経っている人でも。
 生きて、自分の中に降り続ける日々の何かを
自分の中に大切に積もらせていけば。いつかきっと、
私とこのCANTUS ANIMAEの演奏のように
音と自分の中の“何か”が結びつく瞬間に出逢えるはずだ、と。
 私は信じている。


 「その瞬間が瞬間である。その瞬間以外のなにものでもない。
  そういう瞬間があったのである」

 (中井紀夫「山の上の交響楽」より)



 アンサンブルVine・混声31名・関西支部代表

 なんというか、ホント、雰囲気の良い合唱団だよなあ。
 でもその良い雰囲気、佇まいは
書き表すことが難しいんだよねえー。
 でも。今年の感想は
自分の暴走を許しているのでどんどん書いちゃうけど
中学生ぐらいの時に仲間内で、クラスの気になる女の子を
順番に挙げていったりしたじゃないですか。

 誰もが認めるカワイさ、派手めな美人を2人ほど順に挙げた後、
で、オマエはどうなのよ? と普段無口な奴に向けると控えめに

 「た、高島サン、なんていいと思うんだよなあ…」

 なぜか「サン」付けで呼ばれた、
目立たない地味目な女の子の名前が出ると、
一瞬の沈黙があって。
 実はオレも高島サン。イイと思ってたんだよね…。
 お前もか? オレもなんだか気になっていてさあ、と
その場の深い共感を生み出すような存在がVine。
 ちなみに高島サンは仮名です。


 課題曲のMouton 「Reges tarrae congregati sunt」から
まっすぐ素直に広がる声と空間!
 見た目と同様、若さが会場に満ちあふれる印象。
 その若さはテナーの声や、そこかしこに感じられる表現の硬さにも
つながっているのだが。
 しかし、伴奏パートのセンスの良いこと!
 (こちらのアルトの音色はとてもとても私の好みです。
  いわゆるオバサンアルトではない、
  しなやかでかつ深みのある「歌を歌える」良いアルト!)
 胸の奥が暖かくなるような心がある演奏。

 自由曲の現代曲3曲、Ligeti 「Reggel(朝)」
 kreek 「Taaveti laul Nr.104(詩篇104)」
 Levente 「Ha én kedvesemröl gondolkodom」
 (愛しい人を思えば)

 全体に軽やかに華やかに。
 2曲目の男声の入りなんて、表現としては未熟だけれども
その未熟さをあまり隠そうとせず、しかし、
それゆえ出てくる音楽を愛する気持ちが伝わってくるような。

  「上手くやってるように見せよう。
  キレイに見せよう。
  …というのは自分のための歌だよ。

  他の人のために!
  ・・・という歌ではないね」

 いつぞやの松下先生の言葉が甦る。
 飾らない自分自身の声が音の力に繋がるような。
 VOX GAUDIOSAの印象に少し似ている部分があります。

 並びを変え、演出も付いていて
 (もちろんどんな時も指揮者を見ず、
  正面を、「観客」を、見ている!)
 それらは会場の雰囲気をとても良いものにしていたけど、
演出だけが浮き上がっているのではなく、説得力を持つのは
その歌を大切にする心、
そしてその現われの延長として演出がある、
と聴く者に思わせてくれること。

 最後の曲で、リズム明るく愛らしく、
動きを伴って前に出る姿に、
テレビを点けたらスポットライト浴びて踊ってるアイドルが
よくよく見るとかつて地味目の高島サン!
…だったような衝撃を受けましたが。

 それでも、音を、「Vine」としてのステージを
男女で顔を見合わせつつハニカミながら作っていく姿に
 「あぁ、やはり高島サンに間違いない…」と感じ入ったのです。

 仲間を愛し、歌を愛している合唱団は
そりゃたくさんあるのだろうけど、
ここまでその気持ちが聴く側に伝わる合唱団は、
ハッキリ言って稀有です。

 演奏を聴く、と言うより、この雰囲気を多くの人に感じて欲しい!
 がんばれ高島サン! いつかスーパーアイドルになる日まで!!

 (だから高島サンって誰よ?)



 クール・シェンヌ・混声32名・関西支部代表

 課題曲のBrahms 「Letztes Glück」は、つくづく
 “歌”だなあ・・・と思わせ。

 音色、そして音楽の深さと、フレーズ抑揚の説得力。
 さらにフレーズ末から次のフレーズへ繋げる1曲を通しての
 「ひとつの歌」としての高度な技術もやはり
 「どこを切っても歌、だなあ・・・」、という感慨にふけるばかり。

 自由曲Stenhammar 「September(九月)」も
この曲の切ない叙情を見事に深く表し。
 それでいて悲しみに溺れず、
なめらかに節度を保ち、この曲の魅力を伝えてくれる。
 特に弱音から始まる響きの良さに胸が「じーん…」と。

 自由曲2曲目Berkeley 「Judica Me」
 (神よ、あなたの裁きを望みます)
 声、そして歌の力がやはり説得力を持つ。

 ただ、ここから辛口になってしまうのだけど。
 こういう長めの、構成がやや複雑な現代曲には
その“歌”が邪魔になって聞こえる部分もあって。
 「どこを切っても歌」というシェンヌの長所が
マイナスに働いているような気も。

 「巨乳!」「巨尻!」と続くのは良いけど、さらに
 「巨腹!!」…と続いたらイキナリ評価再下落、ですよね?
 (オマエは何を言ってるんだ)

 全体を通して、有機的なだけではなく、
無機的に扱うところ、たっぷり歌を聞かせるのではなく、
あっさりしたテンポで進むところ・・・。
 全体を高みから俯瞰した、遠近感ある構成のもと、
 「ここぞ!」という箇所でシェンヌの“歌”を聴かせて頂ければ
より一層印象が深まるんじゃないでしょうか。


 でも別の所から言えば、シェンヌにはこういう
ムズカシめの現代曲など歌わなくてもいーんじゃないか、
という気もするんです。
 海外の優れた合唱団の易しい愛唱曲が聴衆を感動させるように、
ブラームスやステンハンマーのこの短めの
歌曲にもなりそうな、世界各国の様々な良い「歌」を
シェンヌが聴く者の胸に響くような演奏を追及してくれた方が
コンクールで優秀な賞を獲るより、
よほど価値あることなんじゃないか、
などとも思うんですよ。

 そこまで思わせる“歌”が存在している団体なんです、シェンヌは。



 会津混声合唱団・混声32名・東北支部代表

 課題曲の三善晃先生「あやつり人形劇場」は
明るい声で節ごとに区切るようなちょっと面白い解釈。
 面白いといえば、
「あやつられて “いるぅー”」で伸ばす音が震えて。
 最後の音も低音をブルース?ジャズ?的に
殊更効かせていたり。
 それでも見た目は身体をピクリとも揺らさず
直立不動で歌っているギャップが中途半端というか…オモシロイ(笑)。

 どのパートも素晴らしく、技術が高い印象。「抜け」がありません。


 自由曲、Høybye 「Jubilate Deo(神をたたえよ)」は
2群の合唱!
 軽やかなリズムが効果を上げ、
単純な曲なのに説得力を持つのは合唱団の力のためでしょう。

 自由曲2曲目:Vasks 「Mate Saule(母なる太陽)」は
 ちょっとした響きへの追求、そんな細部への配慮が素晴らしい。
 ヴォカリーゼ、ロングトーン。
 断片が幻想的に絡みあい、響きあう空間。

 後半の大きな、音楽の太い流れは圧倒的でした。
 客席から演奏後
 「自由曲、スゴイ、カッコイイよねー!」
 と興奮した声が聞かれるほど。

 全てにおいて高い水準で、演奏も大変に練られていますし
私も毎年毎年感心していますが、
ここ数年の会津混声の印象を率直に言うと

 「派手目の現代曲を小器用にまとめているだけ?」

 …そんな印象も受けます。(すいませんすいません)
 探し当てた現代曲をこの全国大会という場で紹介してくれる、という
意義を認めた上で。
 それほど内容が深くない曲でも、ここまで聴かせてしまう
指揮者、合唱団の素晴らしい力を認めた上で。

 「真の名曲へ正面からぶつかったらどんな演奏に?」

 …という疑問を感じてしまうのです。
 とてつもなく上手いし
 (私は会津混声が1位に違いないと審査発表前は思っていました…)
「コンクール的には」全く問題ない演奏と言えますが、
会津混声の演奏を聴く前と聴いた後で
「人生が変わった」人がいるような演奏とは思えない。

 別の言い方をすれば、
 「コンクールのために何かを抑え、隠している演奏」
 …とも感じてしまうのです。
 その何かは、アンバランスなほどの曲への愛情や
剥きだしになった歌い手の本質や欲求かもしれませんが。

 「真の名曲」を会津混声が歌うことによって、
心の底から感動できるような演奏に出会える事を、
私は待っています。

 そしてその力は、きっと会津混声に存在しているはず。

 …勝手な希望を書いてしまい申し訳ありませんでした!



                             ●「コンクールについて」へ



●「演奏会感想 目次」に戻る

*このページを無断で使用、転載することをお断りします。