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クール・シェンヌ第9回演奏会感想
15分の休憩後、第2ステージ。 Zwei Motetten Op.74 (Johannes Brahms) (2つのモテット 作品74) かなり前に私も歌ったことのある、ブラームスの名曲。 はじまりの「Warum」から実に練られた 素晴らしい響きが広がっていく。 演奏後の打ち上げにて指揮の上西先生へ 練習ではやっぱり響きを大事にするんですか? そう尋ねると 「もちろん! 結局合唱の美しさは例えば“Warum”と鳴った時に いかに美しい響きがするか、 観客の耳を捉えるか、だと思うんだよね」…と。 上西先生のその言葉通り、一瞬にして聴く者の耳を捉える響き。 アルトの声にやや乾いたものを感じたが 柔らかなフレーズの展開、 そして良くブレンドされた響きが醸し出す ブラームスの奥深さ。 …ただ・・・非常に恥ずかしい告白をここで・・・。 私、オチました。 すいません! 途中で眠ってしまいました!! 後半のコラールで目が覚め、いかんいかん、と 2曲目を気合入れて聴き始め、 ホモフォニックに歌う力強さに惹きつけら、れ・・・(暗転) ・・・最後で目を覚ます、という情けない有様。 うーん、こんなことは滅多にないんだけどなあ。 食事をしてそんなに時間が経ってない、というのもあるけど 他の演奏会でもそんなのはザラだし、 睡眠不足ということも無い。 さらに、以前歌った曲ということで興味も増していたのだ。 それなのに、なんで眠っちゃうかなあ・・・。 言い訳見苦しいよオマエ、ちゃんと反省しろ、と叱られそうですが。 (いや、もちろん反省はしてますが) なぜ聴いているうちに眠気が沸いて来たか、と考えるに。 まず、非常に柔らかく美しい、充足した響きが “常に” “ずっと” 続いている、ということがあるかもしれない。 「美しさ」というのは刺激でもあるわけだが、 変化しないことに人間は耐えられないのと同じことで、 最初は刺激であった同じ「美しさ」が、ずっと続くことで 刺激が刺激にならなくなっているのでは。 刺激、ということに関してシェンヌのこの演奏は あるフレーズを起点にして、 文字通り“ヤマ”へ向かって上っていく、 高まっていく、という印象の演奏ではなく、 同じステージの上で水平移動、とでもいうか。 ・・・振り子が、みぎ〜ひだり〜、みたいな演奏なのである。 それはまるでベタな催眠術のような。 さらに言うならば、響きが充足した時点で 歌い手が満足してしまい、 その分観客へ伝えるという意識が少なくなっているのかもしれない。 もちろん、その美しさをずっと「刺激」として 眠ってしまうどころではなく、 最後まで集中して聴いたお客さんはいっぱいいるだろうし、 眠ってしまったことは間違いなく私の責任です。 申し訳ありませんでした! 15分の休憩後、第3ステージ 混声合唱組曲「方舟」(木下 牧子) ピアノは河野有子さん。 ソプラノもそうだが、テノールの表情の美しさが 大岡信の詩の世界を繊細に現す。 「水底吹笛」では ゆきなずむみずにゆれるはきんぎょぐさ やよいのそらの かなしさ あおさ …などの印象的な言葉が心に染み込んでいく。 「夏のおもひに」では後半、 無伴奏で歌われる このゆふべ海辺の岩に身をもたれ から 夕暮れの海辺の情景が瞬時に広がるような響きの素晴らしさ。 「方舟」でのはじまりのヴォカリーズが かつて無かった洗練された美しさ、など。 難曲に対し、良く健闘されていたと思う。 アンコールは同じく木下作品の「鴎」。 そして「夢みたものは…」。 (その2へ続きます) |
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