演奏会感想の部屋

 



クール・シェンヌ第9回演奏会 感想その2



 ただ、全体を通して引っかかってしまったのが
 「詩の持つ、心に訴える力がシェンヌの演奏に存在しているか?」
 …ということで。

 行きの車中で山本さんが「水底吹笛」について。
 盛り上がっていく
 「がらすざいくのゆめでもいい あたえてくれと」からの箇所で

 「そんなキレイに歌うな! もっと汚く歌え!!」

と木下牧子先生の前で指導した時に言ってしまい
木下先生に首を傾げられた、という話に笑ってしまったのだが。

 でも、そういうことなのだと思う。
 人の心を大きく騒がせる表現、訴えは、
良くコントロールされ、落ち着いた雰囲気ではなく、
切迫した、緊張感のある、ある意味“汚い”表情のことが多い。
 それは芸術の分野に限らず、
人との会話を思い浮かべると分かりやすい。

 シェンヌの演奏は、常に美しい。
 少なくとも「美しくあろう」という意識が前面に出ている。

 だから「方舟」での「空を渡れ!」というフレーズも命令形なのに
その美しさ、安定への強い意識から

 「空を渡ってみませんか?」

…のような優しい誘いに聴こえてしまう。
 心に訴えかける力、強さ、という面では
残念ながら弱いと言わざるを得ない。

 ただ、私のような、長い間継続して学んだり、
積み上げてきたものが無い者にとっては
 「汚くしたり、崩したり、歪めたりするのは簡単なんじゃ?」
 と思ってしまうのだが、
シェンヌのように真面目に、真摯に練習し続け、
大切な“積み上げてきたもの”が確固として存在する団にとっては
それは実に難しいことなのかもしれない。


 積み上げてきたものが、本来伝わるべき表現を
邪魔してしまうことについて書いてきた。
 もちろんそれがプラスに働くことがある。

 今回のシェンヌの「木馬」は掛け値無しに素晴らしかった。

 はじまりの 「日の落ちかかる空の彼方」 から
メランコリーな雰囲気が満ち、
気怠さと黄昏の斜光が重なるような・・・。
 
 その情感に満ちた流麗な旋律に身体が震えるほど。

 「やさしいひとよ」 …と呼びかける
テノールの、繊細さと様々に折り重なる感情が表れた歌。

 学生団体のような、
浅薄な感傷の演奏ではなく、
年月を重ねた大人にしか出せない表情。
 奥行きと、余裕までも感じさせる美の世界。


 行きで「木馬が一番好き」という山本さんの意見に
 「珍しい…」と思った自分だったが
シェンヌのこんな名演を聴いてしまうと
いま、もしも「方舟で好きな曲は?」と訊かれた時に
まず 「木馬」 という曲名を思い浮かべそうな自分がいる。
 一瞬にしてその曲の魅力を聴く者の底にまで叩き込む。
 優れた演奏の力とは、そういうものだ。

 訴える力が弱い、と書いた「方舟」でも
感情を表に出すような、他の演奏では聴けなかった和音が、
シェンヌの演奏ではしっかりと美しく聴こえたことも
記しておかなければならない。
 「空を渡れ」の部分は、こういう和音が鳴っていたんだ!
 と、驚きと共に聴いたのだった。


 もちろん、ブラームスでも感じたテンションの上げ下げで
聴く者の興味と緊張感を持続させること。
 詩と曲が創り出す世界を伝えるために
「美しい」だけの表現では物足りない、というのは
合唱を聴く側の私にとって大事な要素だ。

 しかし、それは円グラフのすべての項目で
円に近づけるよう、それぞれの値を高くする、ということで。
 言うならば様々な科目のテストで
すべて高得点を取る、ということである。

 だが芸術とは、そんなテストと全く同じでは無いはずだ。

 円グラフなら、ひとつの項目が激しく値が高く
その円を突き破っている状態。
 突出する長所、美に、他のものすべてが隠れ、
それにしか目が行かなくなる。
 テストとは違う、芸術にはそんな面があると思うのだ。

 そういった意味で、
私が引っかかったことを長々と書いてしまったが
それはそれで



 「まったく気にするな!」


 と強く言いたくなる団でもある、シェンヌは。
 「円グラフ」から突き抜けてしまう要素を持っている団体なのだ。
 その要素は間違いなく「木馬」への感動に通ずる。



 帰りの車中、シェンヌの過去の名演を収録した
ベスト版のCD−Rをオーディオにかけてもらう。

 このCDがとても良い。
 山本さんと会話しながら聞いているのだが、
ふとした時に耳に飛び込むその音が。

 「うわ! 今の響き、すっごいなあ・・・」

 「あの流れからとんでもなくブレンドされた音やね」

 生演奏では刺激を強く求めるような聴き方をするものだが、
こうして会話をしながらゆったりと聴いていると
演奏の別の魅力が耳に飛び込んでくる。

 「ああ・・・今の声のつながり、上手いなあ・・・」

 「上手いのに、実にさりげないよな」

 「聞き逃してしまうほど、さりげないですよね。
  こういった曲だったら技巧的な巧さが
  前に出てくる団がほとんどだと思うのに…」

 「やっぱり常に“歌”があるからやろね」

 CD−Rのはじまりから終わりまで、
山本さんと私の賞賛の声は止まる事が無かった。
 そしてCDが終わる頃、山本さんが

 「…長年苦労して
  “積み上げてきたもの” は
  ゆるぎない説得力を、生むな」

 ぽつりとそう言った。私が同意すると

 「そういう面でもシェンヌは王道を行っている合唱団やね」

 「王道、ですか?」

 「複雑な曲じゃなくてさ、
  いわゆる美しい名曲を、
  この上なく美しい声と響きで、
  そしてまぎれもない“歌”にしている。『王道』だよ」

 「その言葉だと、難しい曲を
 表面上は巧く演奏している合唱団って
 “邪道”になっちゃいますけど。

 ・・・でも、そうですねえ。
 『合唱音楽 聴いたり弾いたり振ったり』の和泉さんが
 『日本にはドミソでしっかりハモれる合唱団が実に少ない』
  っていつか書いてましたが。

 難しい曲を巧く処理する合唱団は多くても、
 そういう基本で大事なことができる
 シェンヌのような合唱団って本当は少ないのかなあ・・・」


 シェンヌ演奏会を4年ぶりに訪れるということで
演奏会前に副代表の方からメールが送られてきた。
 4年前の私の感想に触れ

 「あれから脱皮しきれてないよな・・・と
  落ち込んでおりました次第です」

 とんでもない!
 ソプラノから一歩引いていた印象の他パートは
充分にソプラノと肩を並べ。
 歌の説得力、響きの美しさは
4年前と比べて段違いに良くなっていた。

 王道を歩んでいる、ということは
寄り道をせず、しっかりと、一歩ずつ前に進んでいるということ。
 脇に逸れて近道を探したり、
早足になって道を踏み外してしまうような歩き方では、無い。


 まっすぐな道を進んでいる当人にとっては
その道がまっすぐゆえに、
自分の進んだ距離がどれほどか
測りにくいことが多いかもしれない。

 しかし、シェンヌはしっかりと、胸を張って、
一歩一歩確かに、前へ進んでいる。
 それは間違いの無いことだ。
 その誠実な歩みゆえに、
王道を進んでいる印象ゆえに、
これからにますます期待したくなる団だ。

 決して目立ったり、派手では無いが、演奏を聴いて
 「いったいシェンヌには
  どれほど積み上げてきたものがあるんだろう?」
 …と改めて感心するような。

 積み上げたものが創り出す
音楽の厚み、説得力、すなわち“ゆるぎないもの”に
自分の音楽へ向かう態度を反省しつつ。


 この次に聴く機会があったとき、
シェンヌはどれほど先に進んでいるだろうか。
 どれほどを積み上げているのだろうか。
 それを一緒に聴くみなさんと確かめ合いたい。


 もっと。
 もっともっとシェンヌは良くなる。
 そのことを私は確信している。



 (おわり)




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