演奏会感想の部屋

 

    合唱団MIWO演奏会感想 


 2006年7月15日 16:30開演
 名古屋:しらかわホールにて。

 MIWO23回目の演奏会は
「新実徳英の世界」と名づけられた
作曲家:新実徳英先生の作品を集めたもの。


 蒸し暑い名古屋の街を歩き、
ホール近くの喫茶店でアイスコーヒーの涼を取り、
開場の10分前に会場に着くと・・・長蛇の列!
 ホールへ入ってからも、どんどん客席が埋まっていき
結果、全700席のしらかわホールが
残り10席を残すだけ、となったそうだ。

 団員さんに後で聞くと、愛知県(名古屋市だったかな?)の
かなりの合唱団の練習場へ直接赴き、宣伝活動をしたそうで。
 過去に何回か、MIWO演奏会で
寂しい客席を経験したことのある身としては
この、ほぼ満席の状態はなかなか嬉しいものでした。

 今回は全5ステージのかなり長大なプログラム。

 最初のステージは吉原幸子氏の詩による
新実先生初期の作品でありながら
評価が高い混声合唱組曲「幼年連祷」
 大谷研二先生の指揮、山部陽子先生のピアノ。

 拍手で迎えられるMIWOは女声18人、男声13人。

 「花」…山部先生のピアノのやや無機的な音型の繰り返しに、
そっと置くようにハミングが加えられ「幼年」の世界が深まっていく。

 この「花」だけではなく、
「幼年連祷」:MIWOすべての演奏で思い出すのは
新実先生の

 「幼年連祷の男声版を請われたことがあったが
  あの曲の響きの成り立ちは
  混声合唱でしか有り得ないのでお断りした」

 …という内容の言葉。

 混声でしか有り得ない、成り立たない響き。
 MIWOの響きこそ、それを充分に証明するものだ。
 バスが底を支え、ソプラノとアルトが清らかにふくよかに
レンジの広い音楽を奏で、そこへ寄り添うように、
柔らかさを、彩を、色気というものを加えるテナー。
 そしてそれらが混然一体に合わさった響き。

 これこそが、男声でも、そして女声合唱でも成り立たない、
郷愁、そして切なさを喚起させる「幼年連祷」の音だ。


 無機的なピアノの音は徐々に体温を音に加え、
合唱と見事なバランスで世界を作り上げていく。
 山部陽子先生のピアノは
東京工業大学コール・クライネスの演奏で何度か聴いた事があったが
その時はやはり大合唱とピアノの難しさがあったのだろうか。
 今回は音それぞれの意味、そして合唱との協調と対立、
そんなことを深く感じさせるピアノ。

 「白いもめんいとの…」
 桜と夕暮れに染まる世界の、かすかな妖しい気配を
とぎれがちな歌で表しながら余韻を残し閉じていく。

 ピアノの打つ低音にスピード速く乗る
言葉のリズム、そのズレの妙。「不眠」

 冒頭の「すきとほったものが ほしい」 というフレーズが
なんと愛情と懐かしさに満ちて聞こえるのだろう。「憧れ」

 そして幼年の美しさから一瞬も待たず
鋭いピアノと声の緊張感。
 発熱の歪んだ世界を表出させる「熱」


 「幼年連祷」全5曲、その4曲までを聴いて。
 ・・・なぜだろう。
 今まで聴いてきた「幼年連祷」。
 そしてこういうものだ、と思ってきた「幼年連祷」とは
明らかにこの演奏は違う。
 例えば切迫感、ひりひりするような、幼年が失われた痛み、
そんな緊張感に類するものがこの演奏には少ない。

 しかし、その緊張感の代わりに
幼年が失われたことを悲しむ、
そんな現在の自分自身を慈しむような、
あたたかく包むような、やわらかなまなざしが音楽にある。


 内なる叫びの「小ちゃくなりたいよう!」 から始まる
最終曲「喪失」では
息長いフレーズの中で、
まるで細かな加速と減速をほどこしたように
微妙な表現、そして言葉それぞれの見事な織り込みが胸に迫る。

 「ひどく光る太陽を 或る日みた」

 音楽が変わる部分の鮮やかさ。

 …「空いろのビー玉ひとつ」 から、
ひとつひとつの旋律が、
冷たい体へ熱い液体を流し込んだように、
体中に染みわたり、手足の先まで広がってゆく。

 絶叫のように響く
 「もう泣けなくなってしまった」 から
 呟きのような最後の
 「そのことがかなしくて いまは泣いてる」 まで
音量の減衰とは逆に、心が激しく揺さぶられていくのを感じた。


 幼年から遠く離れ、
私自身、「幼年を持ったままでは生きられない」
…と、苦い確信と共に思うようになった。
 自分たちの子供が、その幼年時代を生きている姿を
いま見つめているMIWO団員もいるだろう。

 今日のMIWOの「幼年連祷」には
激しく痛む幼年の喪失感の代わりに、
自身の肯定と言うには曖昧な、
苦さと共に、優しさとぬくもりがその表現にはあった。

 繰り返し、幼年から遠く離れたことを実感する今、
聴く前に想像していた演奏とは違うものの、
しかし演奏後に息をつき、しみじみと思ったのは。

 今の自分に沿っているのは今日の、このMIWOの
「幼年連祷」なのだ・・・と。
 MIWOの演奏を聴き、
私は改めて、自分自身の、遠い幼年の喪失を感じた。



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