演奏会感想の部屋

 

      <コンクール感想の前に>
 
    (副題:「火サスと宮部みゆきの違い」



 感想の前にコンクール1日目、
一般Aの部終了後に掲示板へ載せた文章を。
 「火サス」好きな方、申し訳ありません。
 あとエラソーに書いていますが
「名もなき毒」などここ数年の宮部みゆきさんの作品は
時代物を除いて読んでいないのです。これまたスイマセン…。



 一般Aの部!
 すげえ良かった!!
 最近ココロが枯れているような気がして不安だったのですが
ここまで演奏で私を「感じさせ」てくれる団体が存在することに
感動と、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

 私はもう歌うことから離れて4年になるので
細かい合唱技術、いや、音楽そのものの具体的な指摘は
もうかなりオハズカシイ、と言うしかないものなのですが
それでもそういう「シロウト」が聴いて、「良い!」と思った団体と
そうではない団体の違いというもの3つについて、
CA&まいの打ち上げにて話したので
忘れないうちに書いておきますね。

(…珍しく話がウケたので残しておきたい気持ちもある)





 ●「火サスと宮部みゆきの違い」 その1

 音楽って大きな頂点、小さな頂点へ
それぞれ向かいながら進むものだと思うんですよ。
 で、大学生などの若めの団体はその頂点へ向かうときが
 「ガッ!!」と直線的にイキナリ向かってしまう。

 火サス(火曜サスペンス劇場)みたいに
 「犯人はお前だ!」「うっ、なぜわかった?!」…早ぇ!みたいな。

 それに比べて例えば「まい」の課題曲なんかは
じんわりじんわり手のひらで押さえていくように
気持ちを高めていく。
 そんで、頂点へ気持ちが昂ぶったかと思うと・・・
すっと引いて、で、第2部が始まると、
また昂ぶったところから音楽が始まったりする。

 昂ぶっていく“動機”がまず存在し、
そして単純に頂点へ向かわず、予想を裏切ったり、
あるいは後で判明する“伏線”が音楽にある。

 単純な火サスと違い、良く出来たミステリーを書く
宮部みゆきの小説を連想してしまうわけです。
 (別に優れたミステリー作家だったら誰でもいいけどね)



 ●「火サスと宮部みゆきの違い」 その2

 あと火サスでは、犯人は明らかに悪人、で
それ以外の人物造形って無いじゃないですか。
 それと同じで、せっかく曲に今までと違う雰囲気の箇所があっても
「明らかな悪人」の顔のままでそのまま流してしまう。
 あるいはセリフ棒読み、みたいな。

 冷酷な連続殺人犯でも、違う面では
人に大変好かれる魅力ある笑みを持っているとか、
犬を心から可愛がれる、とか。
 今までの音楽とは違う表情を、どれだけ見つけ、
真に迫ったものとして表現できているか。

 それが出来ていれば人物造形、
いや音楽に奥行きと広がりが生まれますよね。

 そんなわけで「火サスと宮部みゆき」の違いは
私の好きな演奏とそうじゃない団体との違いと似てるなー、と思ったのですよ。

 (※火サスファンのみなさん、申し訳ありませんでした!)




 ●感動を蓄え、それを目指しているか

 
3つめは「火サス・宮部みゆき」と関係無いですが
演奏を聴いて

 「この指揮者さん、歌い手さん、
  合唱を聴いて感動したことあるのかな?」
 …と思ってしまった団体がいくつか。

 クール・シェンヌ「とむらいのあとは」の
最初の「たおれたひとの たましいが」1フレーズで涙がにじんでしまうこと。

 まい「ほら貝の笛」、アルトの「海はほら貝を忘れた」の後
男声ハミングでどれだけ世界が広がったことか。

 音、人の声、というものの可能性。
 そしてこんなにも合唱とは素晴らしいものなんだ、と
ほんのわずかな時間で感じさせられるのは
指揮者、歌い手が感動というものに意識的、さらに分析的で、
蓄え培ってきた感動を自分たちで実現しよう、
という強い思いに溢れているからだと思います。

 「感動的な演奏」というと
 「誰々が亡くなった」等の
想いに満ちたときの演奏が思い浮かびますが。
 もちろんそれも重要な要因とはいえ。
 では「感動的な演奏」とは天から降ってくるような
巡り合わせでしか生まれないものなのか。

 CANTUS ANIMAEの自由曲「おらしょ」、
練習では平均律から純正調、ピタゴラス音律まで
音楽の変化に伴ってさまざまな音律で練習したそうです。

 「ふつうに8小節だけ歌っても
  始めと終わりでは半音違っちゃうのに
  なーにが《ピタゴラス》だよねえ?!」

 …と団員さんは自嘲的に言ってましたが。
 しかし、求める音楽のため、その練習をしたことが
(結果は団員さんの理想までではなかったにせよ)音楽の変化に
確かな説得力を加えていたことは多くの人が同意してくれるでしょう。


 知識をいくら集めても
それを生かす方向が定まっていなければ
決して「知恵」にならないように、
発声を鍛え、ハーモニーを磨き、リズムの躍動を自分のものにする行為は
果たして「感動」に向かっているのか。

 今回一般Aの1位から3位までの演奏は
「コンクール的に」優れているものであり、
かつ素晴らしく「感動的」でした。

 感動的な演奏というものは、
決して天から降ってくるのを待つのではなく、
自分たちの力で目指し、獲得するものだということを
今回のコンクールの結果は証明していると思うのです。



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