演奏会感想の部屋

 

 
    全国大会感想・長い前書き



 松山の全国大会前に掲示板で
 「これが最後の全国大会になるかもしれない」とちょっと書いた所、
松山では数名の方から「…で、本当に最後になるの?」と聞かれました。
 ご心配おかけして申し訳ありませんでした。

 結論から書くと2005年は、
 「中学・高校の全国大会(広島)は保留」
 「一般の全国大会(新潟)は行きます」

 ・・・ということにさせていただきます。
 2004年10月末、府中の全国大会を聴きながら、
体調不良のためもありましたが聴いていて
 (…なにか、こう、心に響かない、楽しくないなあ…)と
思っていたのです。
 松山での一般の部を聴いてもそうなるのでは、
そんな危惧がありました。
 しかし、(そういう演奏も残念ながらありましたが)ならないことが多かった。
 そして府中で、「あまり楽しくなかった」理由も自分の中では解決しました。

 私は特定の合唱団で歌わなくなって約2年が経とうとしています。
 そうなるとどうなるか。
 松山での演奏を聴いて初めて気付いたのですが
 「技術への興味、探求心が薄れてしまう」のですね。

 私が入っていた合唱団は私自身の能力はさておき、
 「上手くなろう!」という指向が明確な団がほとんどでした。
 それゆえ、入っている間は技術そのものへの興味があり、
歌うのを辞めてから1年ほどはその興味は変わらなかった。

 しかし辞めてから2年ほど経った今、
合唱というジャンルは私にとってジャズピアノや大正琴などの演奏と、
そう変わらなくなってしまったのですね。


 いきなり大上段からですが
 「表現とはなんだろう」
 …と考えたことがあって。

 私はこうして演奏を聴いて文章を書いていますが、
もちろん「ことば」だけを書いているわけではない。
 演奏したときの音はもちろん、聴いたときの感情の揺れ、
照明の光や会場の匂いや膝に乗せたプログラムの重み、
そんなものを言葉によって、読む人にも感じてもらおう、と思い書きます。
 冷静に考えると不可能なことのようですが、
それでも感じてもらうために、比喩を選び、文章のリズムを考え、
構成を眺め、何度も何度も書き直し
ついに完成してはじめから読み直し・・・
ぜんっぜん上手くいってないので吐きそうになります。

 音楽もおそらくそうなのではないでしょうか。
 私は作曲をしないので話を聞いたり想像するしかないのですが、
「音」だけではなく、さまざまな感情や視覚あるいは嗅覚など、
過去の記憶や未来への意志などによって曲は創られるはずです。
 そして演奏者、合唱曲でしたら歌い手はその曲から
「音」はもちろん、作曲家の様々なメッセージを読みとり、
そして「声」だけではなく、
さまざまなイメージを込めて表現しようとするはずです。

 作曲家の曲に込めた膨大なイメージが
演奏者の同じく膨大なイメージと呼応し、かみ合い、
歯車が回り始めたとき。
 ・・・聴く者は「音」以外のものを受け取ります。

 それはある種の奇跡、と呼んでもいいかもしれない。
 もちろんそんな奇跡なんて存在しないと言い切るのは簡単です。
 音は音でしかないし、そこには風景も匂いも存在しない、と。
 でも、文章でそんな奇跡を起こすことが「表現」と考えている私にとっては
表現する人はみな、そんな奇跡を信じて欲しいと願っています。


 さて、話を戻します。
 「技術」そのものにさして興味が無くなった自分は、
高校生の演奏を聴いて残念ながら敬意の念が薄れてしまいました。
 技術として凄いのと、イメージがあふれる音楽表現として凄い。
 今までは演奏を聴いてその2つによって素晴らしいと思っていた演奏が
技術への興味の薄れぐあいから、
同時に「凄い」と思うことで分かちがたかった演奏への敬意の念が、
本当に残念ながら薄れてしまった。
 もちろんはじめに書いたように、それは体調の面もあったし、
高校生が感じ、表現するイメージが、
年齢が遠く離れてしまった私にとって
ついに、ついに感じられなくなっただけなのかもしれない。(嗚呼!)

 しかし、それはそれとして、
多くの演奏は高度な技術によって詩や音楽の背景を
“それっぽく”演奏しているだけのように私には感じられたのです。
 喩えるならそれは、精緻に美しく盛り込まれた美味しそうな料理。
 ・・・けれど食べようと口にしようとすると、
それは精巧に作られた食品サンプルだった、ような。
 同じ合唱人として高度な技術を尊重していたときは
そのような食品サンプルは“素晴らしい食品サンプル”として
尊重していました。
 だが今はその演奏がサンプルだと気付いたときには
空しさととんでもない疲労感が全身を包んでしまうのです。
 そこには表現の持つ奇跡が、何も無い。
 

 もちろん私のこの状態を、自分自身で好ましい、
と思っているわけではないのです。
 技術だけが音楽の内容より多少先行していても、
それはそれで尊重されるべきです。
 その高度な技術を身につけるまでが、どれほど大変なことか。
 感覚としては忘れてしまっても、
記憶として、知識として、それは私に残っています。
 そして最近の私の感想も、「受ける側」という立場を当然のものとして、
その上、自分の行く末も視点も定まっていない、という
匿名掲示板でよく見られるような文章の臭いが漂いはじめていて、
自分の文章がさらに嫌いになっていたところでした。


 そんな状態で、合唱の感想などは書かない方が良いのかもしれませんが、
それでも「歌う側」と「聴く側」がほぼ一致している合唱の世界。
 「技術」というものにさして興味が無くなった現在の私のこの状態で、
コンクールというものを聴くと、どういう感想を持つか。
 ・・・客観的に考え、それもまた面白いかも、として、ここに記します。




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