演奏会感想の部屋

 

 
      
早稲田大学混声合唱団第47回定期演奏会


 東京、という都市は大学が多いところで、
もちろん大学合唱団もベラボウに多い。
 1つの大学に3つ、4つ合唱団があるなんてことは当たり前で。
 それらの大学合唱団がどういう演奏をするのか、
どういう個性を持っているのか、全て知ることは大変難しい。

 私は地方の大学男声合唱団を経ているので、
いわゆる「東京六連」と呼ばれる、
東京六大学の男声合唱団の方向性などは、
おぼろげながら認識しているつもりだが。
(最近は放送されているかわからないが、
 毎年5月に行われる東京六大学合唱連盟のNHK・FM放送で
 それを知る事も出来た)
 東京の六大学“混声”となると全くお手上げ、である。

 立教は無いの? え・・・青山って?!
 (…スイマセン無知なだけです。
  青山学院大学グリーン・ハーモニーのみなさんには
  全く他意はありません)


 そういうわけで地方では、コンクールに出るような大学合唱団じゃないと
なかなか知る事ができないよね、ということ。

 あ。札幌にいる時に、早稲田混声の話になったことがあって。それは。


 「早稲田混声合唱団ってトコは1パート、40人ぐらいいるんだって!」

 「へーっ?! パート練習とかどうやってんのかねえ??!!」

 ・・・というものだった。その程度。
 (あと、邦人作曲家の新作に興味がある方だったら
  高嶋みどり先生の「誰かが時を…」の初演団体として
  早稲田混声の名前を知っておられる方もいらっしゃるかもしれない)

 当時在籍していたCANTUS ANIMAEの練習に、
たまたま早稲田混声の技術系の学生さんが何人か見学に来ていて。
 お話をしてみると、これがかなりしっかりしている人たちばかり。
 しかもかなり人として「面白い」。
 前述の東京混六、早稲田祭での演奏にもお誘いをされて。

 混六の時はチケットを頂き、聴きに行くはずが。
 なぜか名古屋でノース・エコーの演奏会を聴いていたし。
 早稲田祭は道に迷って聴けずじまい、だった。(…お前なあ)


 そういうわけで前置きがかーなり長くなってしまったが、
ようやくこの定期演奏会で聴くことができた、ということ。

 そして聴いてビックリした。今まで聴かなかったことを激しく後悔した。
 早混OBであるCA団員はじめさんが
 「コンクールに出場したら全国大会シード間違いナシのレヴェル」…との
感想を書いておられたが。
 それはOBのヒイキ目などではなく、全くその通りだと思う。
 (もちろんコンクールには選曲や指揮者の志向するものの違いがあるから
  絶対、とは言えないが、その資格は充分すぎるほど持っている、ということ)

 聴き終わった後、
 「・・・今年の早混は、『日本一上手い大学混声』かも!」

 とまで思ってしまった。
 もちろんこれも評価の高い関西の大学などを
聴いていない私の戯れ言である。
 もっと上手な大学混声が他の地方にあるかも知れない。それでも。

 トップ・レヴェルの大学混声合唱団であることは間違いない。
 個人的な好み、としては相当好みである。
 私の感想の常として、いらないことを色々書いてしまうが、
それはトップ・レヴェルの素晴らしい団体であることを認めた上での意見、
ということを分かって欲しい。



 前置きが長くなったが三軒茶屋の昭和女子人見記念講堂。
 2002・12/15  15:00開演。

 Sop.41人 Alt.36人 Ten.27人 Bas.32人(プログラム表記上)
 エールの後、
 1ステージ:John Tavener作曲
 Magnificat
 Nunc Dimittis
 A Hymn to the Mother of God
 The Lamb

 指揮:水町真人(学生指揮者)


 最初の音を聴いて驚いた。
 ひとつの混声体としてのサウンド、響きがとても気持ちよく広がることに。
 音程の確かさ、そしてこれだけの大人数なのに
パート内のズレがほとんど感じられない。
 柔らかな、しかし芯がある発声。
 特にソプラノ弱声の響きが透明で素晴らしい。
 表現はとても繊細だが、
削って削って小さくまとめその形にしたというのではなく、
上品な自発性(それは知性の高さにもつながる)を
伴った表現だったのが、滅多に存在しない美点だ!

 学生指揮者3回生:水町君の音楽はかなりしっかりしたもので。
 音色の変化や、音楽の流れを重視した、とても知性的なもの。
 そういった音色や、細かい表現でも作為的にならず、
自然な表現を創り上げている指揮者と歌い手の世界に感心した。

 曲の本質を、このステージに乗っている全員が『わかっている!』。
 こりゃとてつもなくスゴイことだ。(この印象は全ステージに共通だった)


 ただ個人的には、タヴァナーはもう少し、心の奥底から滲み出る、というか。
 冬の暗い夜、冴え冴えとした月の光を予想して外に出たら
真夏の燦々と輝く太陽!…みたいなイメージで、ちょっと私には合わなかった。
 冷たさや、厳しさ。そして張りつめた緊張感というものを
タヴァナーに期待するのは間違っているのだろうか。
(個人的にはタヴァナーではなく、ブストやラターなどが向いてるような気がした。
 しっかりした音程と響き。そしてこの指揮者の屈折したところが全く無い明るさは
 こちら系の作曲家の方が向いているような気が・・・)

 フレーズや、曲自体の終わりのニュアンスを、もっと丁寧に考えてくれれば
印象が変わったかも知れない。
 聴き終わった後、余韻が残るような音楽が欲しかった気もする。

 フォルテでも直線的に張り上げるだけではなく、
声の方向性を考えた柔らかい男声も見事だったが、
やはりテナーに地声が見えてしまったのは残念。


 しかし「Magnificat」での言葉とリズムの関係を考えた歯切れ良さ。

 「A Hymn to the Mother of God」での、
ぶ厚いが、決して重々しくならない全体の透明な響きへの指向。

 そして「The Lamb」で歌い手を上手く “呼吸” させるテクニック。
 良く考えられたフレーズの抑揚の素晴らしさが印象に残った。



 2ステージ:
 混声合唱とピアノのための
 コメディア・インサラータより(全12曲中8曲)

 作曲:林光      詩:俵 万智
 指揮:水町 真人  ピアノ:園田 晃子



 この曲が演奏された歴史で、この人数が最多なのではないだろうか(笑)。

 しかし、しなやかな音楽の流れ。
 「バク転できる横綱」…という形容詞を思い出した。
 フレーズの細かい抑揚がやはり素晴らしい。

 「明日まで一緒にいたい心だけホームに置いて乗る終電車」
表現の細やかさなんて「アタマいいなぁ〜!」と感心するほど。


 ブレスの後の、狙った音にズレがあったり(ソプラノが目立った)
ダイナミクスはピアノ、ピアニッシモをもっと落としても良いような。

 この大人数演奏での新しい魅力を表出してはいたが、
「林光」本来の魅力とはやや離れているような気がするので、
フレーズの微妙な“綾”のようなものを、もう少し追求したいところだ。
(こんな大人数合唱団で「そんな指摘、バカ!?」
 …と思われるところだけど、早混なら充分可能な気がするのだ)

 そして、感情と音楽がどこか離れているような素っ気なさ、
ユーモアが林光作品の持ち味だと思うが。
 ・・・それにしても「恋愛」を詠った現代短歌の、この作品。
 もう少し、要所要所の言葉へ感情を込めても良いのでは?…と。

 「さよならに向かって朝がくることの涙の味でオムレツを焼く」
 “涙”が“NAMIDA”…とローマ字に聞こえてしまう。
 恋心を知り、悩み、それを隠した上でのドライな表現、というよりは
あまりにも突き抜けて明るすぎたような。
 (え? オマエの恋愛観が暗すぎるゆえのヒガミじゃないかって??
  ・・・否定できない。水町君、なかなかオトコマエだし)

 林光よりは、やはりこの明るさ。
 団伊玖磨作品などで聴いてみたかったような気もします。

 それでも、なかなかセンスあるピアノも良く。
 
 「バレンタイン君に会えない一日を斎の宮のごとく過ごせり」などの
やはり前からの音楽の流れ、エネルギーを分断させずに活かし、
次の音楽へ見事につなげる“間”、呼吸の良さ、
などは本当に素晴らしいと思いました。

 そして前述の「さよならに…」でも、
全体の響きへの細心さ、豊かさは聴いていて実に気持ち良かった!


 音楽の流れ、呼吸を活かした音楽作り。
 響きの特性をキチンと考えた、この学生指揮者:水町君の2ステージは、
学生のレヴェルとして、かなりの高水準。


 休憩の後。


 第3ステージ:
 Ein deutsches Requiem(ドイツ・レクイエム)
 作曲:Johannes Brahms
 指揮:八尋 和美
 独唱:平松 英子・芳野 靖夫
 管弦楽:東京バッハ・カンタータ・アンサンブル


 正直に言って、聴くまではナメていた。

 「ドイツ・レクイエム」。
 個人的に歌った事もあるが、相当の難曲である。
 それは技術的にもそうだが、ブラームスらしい「陰」とでも言うか。
 そういった音楽の表情は、いくら上手いと言えども
たかだかハタチそこそこの若者には表現しきれないのでは、という
考えがあったのだ。
 ある程度人生を経た人間でしか出せない表現、というもの。


 ・・・参りました。掛け値なしに素晴らしかった、本当に。
 まずこの曲を全曲暗譜で演奏、というだけでも凄いことなのだが。
 「ドイツ・レクイエム」という大曲に極めて真摯に向かい、
自分たちで充分咀嚼し、演奏として輝かせる姿勢に打たれました。

 こういう難曲は学生団体では、力が全く及ばないか、
もしくは悪い意味で「若さ」の勢いでなんとかしてしまう。
 そんな演奏が多いような気がするのだけど。全く違って。

 この「ドイツ・レクイエム」という曲に謙虚に、敬意を払い、
自分たちの持てる力を全て注ぎ込もう、という強い意志を感じました。

 もちろん、オーケストラのテンポ感のズレや第一ヴァイオリンの響きの薄さ。
 管楽器の弱音にもデリケートさが欲しかったし。
 合唱も1、2ステージで感じたように、ブレスの後の瞬間的なフォルテで
身体がついていっていない箇所が多々あったり。
 第6楽章などで、弱音のイメージが柔らかいだけではなく、
もっと集中度がある、研ぎ澄まされた響きも欲しかった。
 そして低声部は下の響きがもっとあれば、全体の音響に広がりがあったろうな…
などと考えもしましたが。そんなのは些細な事。


 さらに磨きがかかったような声。
 そして、専任指揮者:八尋和美先生の音楽も、
この若い歌い手達を存分に歌わせながらも、漫然とすることなく、
音楽の要所要所を切れ味良くまとめ、進めるもので。

 微妙な表現では、若さゆえの繊細さを充分に出し。
 (2楽章:コラールの柔らかな美しさなんて聴き惚れました)
 フォルテッシモではその若さを爆発させ!
 (しかもその後の音楽を投げずに、しっかり音楽を流す!!)

 どのパートも(特にアルト、ベース)しっかり旋律を歌えるのに感心しました。
 ソプラノとテナーの重なり合う響きも本当に見事。


 第2楽章最後、テノールの「ewige Freude…」からはじまる
優しく、ゆたかに柔らかく広がっていく世界。

 第4楽章最初、大きな翼がひらくような。
 特にソプラノの優しく、微妙な表現の階層は
本当に私を泣かせるのに充分でした。涙がこぼれました。

 さらに音楽が進んで行くと、感動とともに
 「なぜステージに立っているのは自分じゃないんだ?!」
 …という理不尽な、怒り、嫉妬のような感情が
なぜか自分の裡に生まれて。
____________________________________________________________________________________________________

 いつまでも青臭く、聴くものを「感動」させるものはなにか、と言う事を
ついつい考えてしまうのだけれど。

 その時その瞬間、いま自分が持っている身体、頭、そして心を
全ておおきく傾け対象にぶつけること。
 その対象から逃げずに、しつこく、真正面からぶつかる事。

 それ以外、「感動」に近づく道はないのでは、と。

 ステージでの早混の演奏に嫉妬し、
 「なぜ自分は“あそこ”に立っていないのか?!」と
理不尽な欲求を抑えるため唇を噛むと同時に、
胸からせり上がり、喉を詰まらせる感情を飲み込みながらずっと聴いていたのは。

 なんで嫉妬しなきゃいけないんだ。
 我ながらヘンだ。おかしい。

 ・・・後から何故かよく考えてみたら。
 それは、失われたものに気づいた悲しみ、とでも表したいもの。
 あんな表現はもう永遠にできっこない。
 あんなに曲に対して真っ正面に、そして
傷つきやすい繊細な心で向かう事はできっこない。
 どんなにその曲を愛したとしても。

 それが嫉妬の正体だった。絶対に、もう二度と、あんな風には歌えない。


 自分の全存在が輝く一瞬、そんな時はなかなか訪れる事はないが。
 しかし、ごく希に訪れる事がある。
 この「ドイツ・レクイエム」の早混の演奏のように、歌うことで輝く一瞬もある。
 
 予言をすると、このステージに乗ったものはみな、
数年、数十年どんなに年月が過ぎたとしても。
 距離がどんなにこの「昭和女子人見記念講堂」から離れていても。
 そして合唱との繋がりが切れていたとしても。

 たとえば第6楽章のテノール「denn du hast alle Dinge erschaffen…
 …からはじまる旋律をいったん思い起こせば。
 このステージの感情と空気がすべて湧き起こり、甦るに違いない。
 肉体の遥かな暗闇を抜けて、その旋律は胸の深い奥から
光を伴ってあふれてくる。

 なぜそんな確信を持って言えるのか?
 ・・・なぜなら私もそんな瞬間があったから。


 そして、そんな瞬間から遠く離れ、思い起こす事が難しくなったとしても。
 本当に輝いているものに出逢った時、ふたたび、ひとの胸の火は輝く。


 胸の中に、埋もれているかすかな小さい火。


 その埋め火を熾す演奏だったと思う。


---------------------------------------------------------------


 最初に「もう二度とあんな風には歌えない」との嫉妬があった、と書いた。
 それと同時に、どんなに自分が変わろうとも、
新しく輝く“その瞬間”に出逢うことができれば。


 自分自身の、その瞬間は永遠なのだとも思った。実感した。
 確かな手ざわりとともに。


 そして、自分が音楽を聴き続けるのもそのためだと思った。
 “いま” 輝いている光に触れる事によって、
かつて輝いた、自分の中に埋もれている火を永遠のものにするということ。
 それが音楽を聴き続ける理由なのだと。


 胸の火を輝かせてくれた事に、心からの感謝を。


 早稲田大学混声合唱団のみなさん、
 あなた方はこの演奏を誇りに思っていいと思います。ありがとう。





●「演奏会感想 目次」に戻る

*このページを無断で使用、転載することをお断りします。