演奏会感想の部屋

 

 
                 タルバガン
    
「究極の喉歌 〜アジア中央部の民族音楽〜」


  郵便受けにたまたま入っていた情報誌を開いたのが当日の朝10時。
 「催し物」欄で1行だけの
 「究極の喉歌〜アジア中央部の民族音楽〜」に目が留まった。

 10月9日 土曜日 岡山市立オリエント美術館  開演19:00〜

 オリエント風のモザイク・レリーフが壁にいくつも飾られる
美術館内吹き抜けの空間。
 ほんの少しだけ床より上、という感じのステージと、
すぐ近くを囲む50ほどのパイプ椅子。

 モンゴルの民族衣装を着た色白の青年、
髭を生やしたトルコの民族衣装の青年?がふたり現れる。

 トルコの弦楽器がリズム的に爪弾かれ
馬の彫り物をした弦楽器が弓で弾かれる。…豊潤な音だ!

 石壁にこだまする深くやわらかい旋律。
 まろやかなその響きは観客の間を風のようにすり抜け
会場全体を満たす。

 そして「喉歌」。
 モンゴルでは「ホーミー」、トゥバ共和国では「フーメイ」とも呼ばれる
倍音声分を多く含むその歌は・・・故・いかりや長介氏の「オイッス!」。
 詩吟の唸りのような低音は、同時に様々な音色を生む。
 夏の田んぼで愛を交わす蛙たちの声のような。
 冬。風の強い日、頭上で大気を冷たく切り裂いたときに鳴る高い音のような。

 キワモノ扱いにしか思っていなかったその歌唱法が、
弦と多彩なヴァリエーションで絡む。

 数曲が終わり、周りのお客さんを見渡すと、
リラックスし、かつ少し上気した風の表情をしたお客さんが多い。
 私も口角がゆるんでいる。

 心へ染みてくる馬頭琴による中央アジアの民族音楽を聴いていると
どうしても“西洋音楽”との違いを考えてしまう。
 たとえるなら。
 石造りの堅牢な建造物に響かせる音 : 広大な草原に流れる音。
 高く高く登り詰めていく音 : 等身大の高さでゆるやかに広がっていく音。
 空間を切り裂き自らを主張していく音と、
聴いていた風がいつのまにか音楽になっていく音・・・。

 尺八のような、古びた扉がきしむような、そういった“ノイズ”も
音楽の一部として取り入れ、創りあげる世界に心寄せられ、
自分自身の「アジア人の血」というものも感じてしまった。


 「黒い馬が走るさま」「離ればなれになった恋人への思いを歌った曲」
 …というテーマも音楽も非常に分かりやすいので、
馬頭琴とこの「喉歌」の関わり合いを、
もっと現代的な視点から掴んだ曲というのは存在するのだろうか?
などと感じたりもしましたが。

 「草原のチェロ」とも呼ばれる、この馬頭琴。
 幼い頃、実際の音を聴くまで頭の中に鳴っていた宮沢賢治の
 「セロ弾きのゴーシェ」の“セロ”のイメージにピッタリでした。「インドの虎狩り」!
 どこか懐かしく、心を安らかにさせる音色です。


 最後に、強引に合唱世界へ戻るなら。
 非・西洋音楽の曲を多く聴いてきたり、
自分でも歌ってきたりしましたが、
その声そのもの、自分で表そうとした世界ははたして「非・西洋」だったかな、と。

 聴いて連想するのは自然の中でかつて聴いた音たち。
 風にのって現われ風とともに空気の中へ消えていく音たち。

 そんな「非・西洋」の素材、世界を自分で充分にイメージしていただろうか。
 楽曲だけは「非・西洋」で、素材としての声も、歌う自分が持つ世界も
「西洋」…だったのでは。

 「非・西洋」自体を確固とした世界として表現していただろうか。

 自分の血の中に流れる「非・西洋」を改めて感じ、
世界を包み、取り巻く様々な自然音にも改めて耳が開かれる演奏会でした。



 今回の「タルバガン」だけの活動ではなく、
個人でも、他アーティストとも様々な活動をしている
馬頭琴奏者:嵯峨治彦氏。
 そのテクニックと声以上に“歌う”馬頭琴の音楽性に魅かれてしまったので
しばらくその演奏を追い続けて行きたいと思います。


 「のどうたの会」




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