演奏会感想の部屋

 

     合唱団MIWO 第20回記念定期演奏会



 J.S.バッハ  ミサ曲ロ短調

 指揮:大谷研二

 ソプラノ:鈴木美登里
 カウンターテノール:上杉清仁
 テノール:谷口洋介
 バス:浦野智行

 東京バッハ・カンタータ・アンサンブル


 2003 12・28 15:00〜
 岐阜・サラマンカホール




 拍手が続いていた。
 満席のサラマンカホールで。
 指揮者が、ソリストが、オーケストラが、
 そしてMIWO、最後の一人が退場し見えなくなるまで続いていた拍手は
 ふたたび姿を現したMIWOのメンバーにさらなる高まりを見せた。


 この演奏について何を語ろう。
 “Kyrie”の冒頭でソプラノとヴァイオリンが重なり、融け合い、
減衰する響きがはたしてどちらの音か分からなくなるほどの
オーケストラと合唱との一体感だろうか。

 それとも各曲、各部分で鮮やかに色を表情を変える
音色・表現の多彩さだろうか。

 合唱団MIWO・HPの「director」をクリックし
指揮者:大谷研二先生の「message」を
さらにクリックしてみよう。
 MIWOへの深い想いをつづった大谷先生の一文の中に、こんな箇所がある。

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 私にとってすばらしい人生とは、何かを成し遂げたり、何か立派な成果をあげることより
も、できるだけ素敵な時間、できるだけエキサイティングな時間、できるだけ輝いている時
間をたくさん持つことのできる。そういったものです。

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 大谷先生の言われる素晴らしい人生につながるもの、時間。
 この演奏会はその“時間”、一瞬という時について考えをめぐらせずにはいられなかった。

 たとえば第2部の「ニケーア信経(CREDO)」。
 「Et incarnatus est(人となられた)」から始まる
キリストがこの世の者となり、そして十字架に付けられ、
ふたたび甦るさまを表した3曲では、MIWOと聖書の世界がとても近い。
 それは心情、距離、そして時間からも近い。

 遠い過去と世界、見知らぬ人物を客観的に歌うのではなく、
「いま」目の前に映し出される光景を歌で描くように。

 そして人のために遣わされた神の子が、
人の手によって十字架に付けられるという悲劇を歌っても、
MIWOは目をふさぐことなく、心を硬くすることなく、
その悲劇を一瞬一瞬心に取り入れ、
そして心の奥底から柔らかく、しなやかに
悲しみを立ち昇らせ歌にのせていく。

 緊張は空間に存在しているが過度ではない。
 柔軟な心が、過ぎ去っていく一瞬一瞬を掴もうとする意識が、
聴くものを強張らせることなく音楽の流れにのせていく。


 その一瞬を掴もうとする意識がなにより生かされていたのは
輝くニ長調の軽やかな速さで進む数々の音楽だ。
 たとえば「Gloria in excelsis」「Et in terrapax」。
 ニケーア信経に移ってからは
 「Patrem omnipotentem」「Et resurrexit」「Et expecto」。
 そして「Sanctus」「Osanna」。

 神を賛え、神からもたらされるこの地の平和を歌い、
その神への信頼と、神が甦られた喜びを歌う。

 風のように流れ過ぎ去っていく時間の光の粒を
あやまたず捉えしっかりと心を通し歌として放出していく。
 彼方からやってくる音楽を構えて待ちはしない。
 そして過ぎ去った音楽にも手を伸ばさない。
 常に、どんなときも “いま” だ。一瞬だ。

 一瞬の連なりの、この音楽はなんて魅力的なんだろう!
 「Gloria in excelsis」から「Et in terra pax」へ
アタッカで変わる胸のすくような爽快感。
 「Osanna in exelsis」で2重合唱となり
細やかに弾む「Osannna」の語句がふたつの合唱群の間で
響き合い、光を伴って広がっていく。

 MIWOの音楽には「共に生きている感覚」。
 いまこの瞬間この場で同じ素晴らしい音楽を共有している、という
喜びが感じられるものだが、この日ほどそれを強く感じた時はなかった。
 こんなに明るく喜びに満ちた音楽なのに、
いやそれゆえに、いまこの瞬間を生きているという歓びに、
何度も何度も眼が潤んだ。


 時が進み、豊潤なイメージの優れたカウンター・テナーである
上杉清仁氏の「Agnus Dei」が終わると
最終曲「Donna nobis pacem(我らに安らぎを与えたまえ)」の
優しい旋律が男声から歌われていく。
 さらに、柔らかく軽やかなメリスマが、主旋律を支えるように。
 今日の感動を縁取るように。

 ソプラノ、アルト、テノール、バス、それぞれの旋律が強さを増し、
トランペットが高らかに鳴る最高潮、
大谷研二先生のさらなる強さを求める指揮は左手を大きく震わせた。
 その瞬間、足下から大きな震えが昇り、聴く私の弦をかき鳴らした。


 大谷先生は立派な成果より、
できるだけ素敵な時間をたくさん持つことが素晴らしい人生、と語られている。
 しかし、この一瞬の連なりの素晴らしい時間を
「立派な成果」や「成し遂げた」ことと異なるとは到底思えない。

 少なくとも私は、この演奏をずっと憶え続ける。忘れない。


 ――― 最後の音が終わった後、少しの間をおいて大きな拍手が湧き起こった。






 <追記>

 演奏会後、参加させて頂いた打ち上げの終盤、
「Donna nobis pacem」を歌おう、と
MIWOのメンバーが立ちあがった時、
大谷先生はその指揮を柔らかく、しかし頑なに岩本達明先生に譲られた。
 アンサンブルトレーナーとしてMIWOを見続け、
この日は客席で演奏を聴かれていた岩本先生に光をあてよう、
そんな大谷先生のご配慮ももちろんあったと思うが。
 MIWOとの『ロ短調ミサ』を演奏会のみの一回限りとして永遠のものとしようとする、
大谷先生の御意志にも感じた。

 単に回数を多くすることや長く続けるのではなく、
二度と訪れない、一回限りの瞬間を煌めかせることこそ
永遠につながるのかもしれない。

 岩本先生が指揮する「Donna nobis pacem」が終わったあと、
眼に光るかすかなものを指でぬぐう大谷先生の姿を見て、そう思った。

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 演奏会に寄せて

 ついに、MIWOと『ロ短調ミサ』を演奏する時がやって来た。
 私とMIWOとの“共演”が始まった時には、「想像もできなかったこと」「考えもしなかっ
 たこと」……いや、心のどこか片隅に「いつかできたらイイな…」があっただろうか……?
 あったとしても、それは「夢」のようなもの。多分メンバーにとっても。
 その「夢」を、彼らは実現してしまった。

 私にとって、この作品は、大学4年生の時に初めて歌って以来、ずっと特別な存在。
 当時の私にとって、「長く、技術的に難しい曲」だった。
 そのイメージがすっかり変わったのは、ドイツで師匠の指揮する合唱団に加わって度々
 歌い、ドイツ人メンバー達が、この曲を実にいきいきと歌うのに驚いた時。
 ラテン語(一部ギリシャ語)のミサ・テキストを、まるで日常語のように明快に、快活に、
 そして楽しく歌う。
 素晴らしいと思った。
 それから、彼らとヨーロッパ中で『ロ短調』を何度も歌った。
 時には、バイエルン州にある有名な大聖堂で、時には「黒い森」の中にある古い修
 道院で、時には、ルツェルンの音楽祭ホールで。
 そのどれもが、かけがえのない音楽体験だったと思う。
 そして、帰国してからは今までに数回、自ら指揮するチャンスに恵まれた。
 指揮してみて、改めて分かる作品の偉大さ。美しさ。難しさ。

 そして、MIWOとの『ロ短調』。
 これは、私にとって今までの演奏とは質の異なるものになると確信する。
 それを一言で表現すれば「真から楽しめる演奏」ということになる。
 これは、MIWOと私でなければできない芸当だと思う。
 それは、もはや技術の問題ではないのだ。心と心の深いつながりからしか生まれない
 “何か”なのだ。
 それに、素晴らしい共演者たちの妙技をも大いに楽しもうと思う。

 もう一度。 この夢を、こんなに素晴らしい形で実現させたMIWOという合唱団に、
 改めて敬意を表する。
 そして、この一回だけの演奏を、永遠のものとしたいと思う。
 それは、私の心の中に。それは、MIWOの人たちの心の中に。それは、聴いて下さっ
 た方たちの心の中に。

                                      
                                      

                                               大谷研二


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