演奏会感想の部屋

 

 

 第3ステージは
 「Caprice! 〜歌いまくれ!!」と題されたもの。
 本当に、どっから見つけてくるんだろうなコレ、と
思わせるような曲を次々と9曲。

 ・・・暗闇の中、ステージに寝そべる団員たち。
 客席の四方八方から口笛や動物の鳴き声など、
真夜中のジャングルを思わせるような音の後、光が射し
 「WIMOWEH − The Lion Sleeps Tonight」
 (S.Linda詩/R.Smail編曲)
 (「ライオンは眠っている」という昔のヒット曲)

 グッチ裕三風味の達者なソリスト氏が歌い、動き、
それに加わる団員たち。
 歌が繰り返され、客の心を充分に掴むと、また徐々に暗く、
団員 = ライオンたちは寝そべりまた闇に・・・という演出。

 拍手とともに明るくなったステージへ登場したのは
第2ステージで司会が違ったので
「降板?!」と思ってしまった「早稲田大学出身」の司会:高橋守さん。
 いつも通りのノリ良い司会は健在です。

 「The Farmer’s Boy」
 (イギリス民謡/R.V.Williams編曲)

 「Niin jos oisit lauluni」
 (E.Leino詩/L.Madetoja作曲)…と続き、期待の

 「ムウヲオアヱエユイユエアオウム」(A.Hillborg作曲)

 司会の方が
 「この曲は北欧の“とあるもの”を思い作曲したそうです。
  何か、当ててみてください!」

 厚い持続音(音叉片手に音を確認する団員さんも)の中、
合唱団のそこかしこに、トレモロが断片的に浮かび上がり、
そして消えていく。
 うつろいゆく和音への愛おしさがこみ上げる幻想的な世界。

 印象的なトレモロから現代作曲家:佐藤聰明氏の
「リタニア」というピアノ曲も少し連想してしまいました。
(あそこまで攻撃的、というか饒舌な曲調では全くありませんが)

 合唱の可能性を感じさせる、
聴けて良かった!と思わせる曲と演奏。
 ちなみに北欧の “とあるもの” とは?
 そう、答えは 『オーロラ』 でした。

 続けてインド民謡という
 「Dravidian Dirthyramb」(V.Paranjoti作曲)の後
 「Minoi,minoi」(サモア民謡/C.Marshall編曲)。
 「踊れ、踊れ」という曲名。
 ハワイアンダンスのような曲調に、
端でフラダンスを踊る団員3人!
 こういう演出が堅くなく、ごく自然に歌と合っているのが驚き。

 そんな演出面でのヴォルテージはますます上がってゆき
 「African Processional」では
 (D.V.Mantoya作曲/R.Kean編曲)
指揮者の横にアフリカ太鼓があるのを始めとして、
団員から湧き上がる鳴り物多数。
 歌が盛り上がるにつれ、手拍子もごく自然に出てきて、
会場中を巻き込む賑やかさとノリに!

 「振り付け」…ではない、
あくまでも歌を活かすような動き、手拍子。
 その自然で洗練された見せ方と歌。ある意味プロに近い。
 存分に楽しませていただきました、すげえ!!

 一転して
 「Away from the Roll of the Sea」では
 (A.MacGillivray詩・作曲/D.Loomer編曲)
団員さんの弾く上質なギターにあわせ
アメリカン・フォークソングのような叙情をしみじみと…。

 そして最後の曲は昨年の全国大会でも話題を呼んだ
 「Pseudo−Yoik NT(偽ヨイク)」
 (J.Mäntyjärvi作曲)

 昨年、京都での世界合唱シンポジウムにて
指揮者の伊東さんがこの曲の作曲家:マンテュヤルヴィに
逢うまでの苦労、そしてようやく出逢えた時のエピソードを
相変わらずトボけた口調で説明。

 演奏は、と言うより演出は。
 全国大会ステージ、あるいはそのDVDをご覧になった方には
既にご承知だと思うが。
 例えば伊東さんが右手を振り上げる。
 ざッ、と右を向き歌を放射するなにコラ。
 伊東さんが左手を振り上げる!
 すかさず左へ歌を放射するなにコラ!

 単純な曲だけれども、歌と動きが
相互作用でおもしろく、かつ説得力を持つものに。
 歌のための動きだし、動きのための歌である、とまで
観客に思わせるように。

 このステージの全9曲。
 曲それぞれを取り出せば
もちろん出来不出来の差はあるのだけれども、
司会の方の良い進行、そして自然で巧みな演出とともに、
全体の流れにメリハリがあり飽きさせなく、
まったく滞るところが無い。
 かなり完成度が高いステージ。

 アンコールは小アンサンブルをいくつも作る形での
 「野薔薇」

 そして集中度の高い演奏だった黒人霊歌の
 「Soon Ah Will Be Done」


 伊東さんがふたたびマイクを取る。

 「最後の曲は、いつも悩むのだけども
  今回はずっと前から決めていた。
  今ここで仲間と共に歌えるシンプルな喜びを込めて」
 

 すると、団員がステージを降り、
1階の客席を取り囲むよう環になり、
木下牧子先生作曲、立原道造詩の
 「夢みたものは……」 を。

 正直な感想を言うと技術的には、
この演奏会で歌われた曲の中で
他を大きく引き離しダントツで最低。
 音程は明らかに狂っているし、
テンポはパートごと、どころじゃないほどズレまくってるし、
発声もまったくバラバラと言っても差し支えない。

 しかし。
 これほど目と耳が惹き付けられる曲も、また無かった。


 プログラムから伊東さんの文章を抜粋しよう。


 我々は、「合唱」が一人では出来ないもの、「仲間がいて初めて成立するもの」である
ことを知っている。合唱はともすれば一人でぽつんと立っていたであろう私を仲間の
いるところに引き寄せてくれた。演奏会は、いまこの場でこの仲間といることの幸せと
安心感・・・、ここで音楽出来る喜びと期待感に満ちたものである。
 しかし我々は同時に知っている。歌がパーソナルなものでもあることを。それは署名が
あり、宛先の書かれた手紙でもあることを…書く内容を決めるのは自分自身であるという
ことを…。膨れ上がってきた気持ちを抑えきれずに、ときにこう言う。

      「みんな、違う! そんなのは歌じゃない。楽譜も指揮者も信じるな!」

 我々はいつももっと逞しくならなくてはならないと思う。そして、もっと一人一人が
別の歌を歌わないといけないと思う。何故なら、それらを上回る強くて深い
< ひとつの気持ちがここにあり >、それを全身で表現するのが指揮者だと信じたい
からである。


                         なにわコラリアーズ   指揮者 伊東 恵司



 歌い手の妥協と抑制、
あるいは指揮者の号令によって合っている“合唱”。
 そんなものとは決別した、決別しようとしたものが
この「夢みたものは……」だったのかもしれない。


 なにわコラリアーズの今日までの道程はとても興味深い。
 日本を代表するほどの演奏技術を持ち、
合唱を長く聴き続ける観客を唸らせるほどでありながら、
初めて合唱を聴くような人でも、
ごく自然に楽しませ、その世界に引き込んでしまうような
演出の完成度が年々高くなっていること。

 加えて言うならその完成度は
“ポピュラー音楽の合唱編曲”に頼るわけでもなく、
男声合唱だけではない、合唱そのものの広さと深さを
存分に示した結果であると言うこと。
 (さらに言うならば毎年毎年、重複する曲がほとんど無い、と言うこと)

 アマチュア合唱団の多くは“技術向上”を
第一の目標に置いてある所が大部分だと思う。
 では、もしも、その“技術”が指揮者の、団員の
望むほどの水準に達した時、
他の目標は確固としてそこに存在しているのだろうか?

 たとえば「心を込める」…という目標があるかもしれない。
 では、さらに問うが
 「心を込めた」演奏が達成されたとき、
その演奏を聴いた観客は
具体的にどういう反応を示しているだろうか?
 「心を込めた」演奏が達成されたとき、
その歌い手は具体的にどんな状況にあるのか?
 「心を込めた」演奏へ至るにはどういう手段、道筋があるのだろうか?

 目標を抽象的にあいまいにせず、
自分たちの演奏を聴いて、観て、
観客がどんな反応をしてくれれば理想か。
 そしてそのために演奏する側はどんな努力をすれば良いか。
 なにわコラリアーズはそれら全てに対しとても意識的に、
そして着実に成果を積み上げてきた。
 その結果が、今日の演奏とそれに対する大きな拍手だったと思う。


 「期待」という言葉をいま、考えている。
 人が何かに対し期待するとき、
その何かが目標のどれだけを達成できているか?
 その多寡はそれほど問題ではないのだ、きっと。

 大切なことはゆるぎない目標をしっかり示してくれること。
 そしてその目標に向かって少しずつでも、わずかずつでも、
誠実に積み上げ続けているということ。
 それらふたつに対し、人は期待を抱くのだ、きっと。

 
 なにわコラリアーズの目標とするすべて、
そして夢みたもの、願ったものすべてが
仲間たちの集まる 「ここ」 にある限り。
 
 あのとき大きく拍手をした多くの観客と同じように。
 私は期待する。期待し続ける。