演奏会感想の部屋

 


 第2ステージの
 混声合唱とギターのための組曲「クレーの絵本 第一集」
谷川俊太郎氏がクレーの絵から得た印象を詩にしたもので
三善晃氏がその詩を合唱曲にした定評ある名曲。

 日本語になるとメゾピアノ以下の音量では
言葉が立たなくなる。
 そして「階段の上の子供」「黄色い鳥のいる風景」
こうした比較的早いテンポでリズムが複雑な曲になると
情熱的な歌い方ゆえか、途端にリズムが「だんご」になり
その曲の良さを充分に表すことが出来ない。
 (これは第1ステージでも思った傾向)

 単純に、コンクールで優秀な成績を収めている団体にしては
一般に想像されるより、
技術面で今ひとつ及ばない団体、
と言えるかもしれない。
 だが

 それがどうした?!と言ってしまいたくなるものがある。
 曲に対してここまでひたむきに、
熱く、前傾姿勢で向かっている状態は
 「顔が触れるほど至近距離で熱く語り続ける」人に
対面している時と似ているのかもしれない。

 通常の、テーブルを挟んで距離を置き、
相手の話す内容を客観的に冷静に見極めよう、
…そんな態度は通用しない。
 相手の吐息がかかるほどの距離で問われるのは
 「受け入れるか否か」である。
 ゼロか100%である。
 極端である。近づき過ぎ。やり過ぎだ。
 でもそのやり過ぎが私には愛おしい。

 断末魔のように苦しい音をそこかしこに洩らしながらも
それでも限界を越えて伸ばそうとする持続音の「不滅のバッハ」や。
 テナーの野放図に跳ね回るリズムから
そのテンポの早さに耐えられず坂を転がり落ちるようになった
「階段の上の子供」での、
それでも声で空間を押し広げようとするような、
そんな生きた音の連なりに胸が熱くなってしまうのである。


 もちろん、そういった「やり過ぎ」だけが目立つわけではなく、
コンクール課題曲だった
「クレーの絵本」での「あやつり人形劇場」では
良くブレンドされた声としなやかな節回しが
ケレン味の無い表現であるにも関わらず、
確かな説得力がある完成度の高い演奏だったし。
 同じく「クレー」から「選ばれた場所」はダイナミクスの幅、
リズムのうねり、そしてどこかブルース的な匂いが借り物ではなく、
今まで聴いたこの曲の演奏の中では、
私にとって一番に位置づけられるものだった。

 そして最初のパレストリーナ、
アンコールの堀内貴晃先生作曲の「子守唄」は指揮者を立てず、
団員だけのアンサンブルで歌われていた。

 (指揮者がいた方がダイナミクスなどのメリハリは
  精度を増した演奏になるだろうな、と思いつつ)

 そのアンサンブル能力は他の合唱団と比べ
かなり優れているものだと思うし
発声面でも特にソプラノは澄んだ声質でありながら
その表現の幅はかなり広いものであったことを記しておく。



 最後の第3ステージは前回の演奏会やコンクールなどで
何度も歌われてきた
堀内貴晃先生への委嘱作品「みみをすます」
 谷川俊太郎氏の詩で
 (※このリンクから谷川氏ご自身の朗読が聞けます)
今回の演奏は出版改訂版ということ。

 多種多様な打楽器を使ったその曲は
さまざまな足音を模し、変化し、
効果的に合唱に絡み
(打楽器奏者:高梨晃氏の名演奏!)
その演奏を彩っていく。

 生演奏では初めて聴く後半。
 団員のピッチパイプが
足踏みオルガンの音を思わせる郷愁を招く。

 「耳の記憶」。
 耳が拾い、体験してきた無数の音。
 その耳の記憶は世界の広がりそのものになって
目の前にさまざまな風景を写していく。

 聴いている自分、という個人の耳の記憶。
 自分を含む、人類という種の耳の記憶。
 人類を含む、生物の耳の記憶。

 私の生きてきた記憶と、
生命全体の記憶と、
宇宙の始まりからの記憶というドラマ。

 この曲が
「CANTUS ANIMAEのために作られた」ということを証明する、
CAが “歌そのものになった” 演奏。
 その演奏が描く壮大なクライマックスに、
宇宙の始まりから、いま自分がここに存在し、
いま、みみをすませている不思議に、震えた。


 あなたの目を、まっすぐに見て、
語りたいことを全身全霊をもって真摯に伝える、ということ。
 これは「熱演」と表すべきものなのだろう。
 しかし、単純に「熱演」と私は呼びたくない。

 なぜならそれはCANTUS ANIMAEにとって
感情の盛り上がりなどに左右されない、
本来の姿勢そのものであるから。


 受け入れるか、否か。
 次はあなたがCANTUS ANIMAEの演奏をどうか聴いて、
そして、決めてください。





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